Xデー探し

 今回の岐阜での検査結果は一両日中には出るようだ。その結果によって、僕の抱えている腫瘍の種類がある程度明確に確定する。すると、いったいいつそれが発生したのかもある程度わかるかもしれない。その前にここまでの僕の推理をまとめておきたい。腫瘍発生のメカニズムはまだはっきりしていないが、極度のストレスによるとの説がある程度有力なようだ。
 思い当たるふしはいくつかある。
 ひとつは、2000年頃、マレーシアで、残務処理をいれたらそれまで二年ほど勤めていた綿棒会社が倒産したこと。僕はこの会社に丁稚奉公しに来ていた。当時我が家は曽祖父が興した衛生用品会社を経営しており、このマレーシアの会社はその取引先だったのだ。突然の倒産、その際慣れない工場売却などの任務を華僑の友人の助けを借りて一人でこなし、クタクタになった。同時にその時可愛がっていたマレー人工員のカマル君が、僕の一時帰国中に腎臓病が元で死んでしまった。当時16歳だった彼は非常に人懐っこいいいやつで、でもその年代の多くの少年がそうであるように仕事なんかより遊んでるほうが大好きな奴だった。しばしば仕事をサボって寮でブラブラしてる彼をとっつかまえてネコ掴みして工場に連行したものだ。社長が彼をクビにしろと言うたびに一緒に頼み込んで、、そんな彼が突然コロリと逝ってしまった。もしあの時僕がマレーシアにいたら、たぶん僕でもナントカなるようなお金で少なくとも彼は死ななくてもすんだのではないか?思い出したら泣けてくるからこんなとこにしておく。これらのプレッシャーに潰された僕は、ドラッグに溺れていた。あの時この腫瘍ができた可能性は大きい。
 もうひとつの可能性は、その直後に大阪で父が始めた現金問屋が倒産したそのときだ。先に述べた衛生用品会社をとある大手会社に売却した父は、それを元手に大阪のとある現金問屋を買収したのだ。その無謀な思い付きを咎め、諌めた僕も、いざ始めるとなると自ら手伝い、父を支えようとした。しかし父の思いつきと、ある有名なフィクサーの計画で始まったこのプランはたちどころに行き詰まり、半年で二億を失い、更にはその時の振る舞いで父はそれまでの信用をも失った。そのフィクサーに騙されたのは誰が見てもあきらかだった。これは事実上の父にとっての破産宣告だった。ただ運よく彼には一棟のマンションが残り、そのあがりで彼が死ぬまでの間は食っていくぐらいには困らない身分は保証された。その時、僕のヒーローは死んだ。二度と蘇ることは無かった。
 もうひとつの可能性は先日もここで話した2001年初頭の、西荻窪からの追放である。楽園追放。命にかかわる大失恋だった。因みにこのときたまたま受けた保険会社の健康診断で、ありえないような心拍数と血圧を叩き出した僕は特約を受けられなかったほどだ。じつはこれが一番あやしい。うまれてこのかた、これほどまでに体に精神の影響が出たことは無かったからだ。三年殺しを知ってるかい?ロシアのサンボの裏技さ。